Advantages to be an interdisciplinary being (on a transition to the industry)

8月の後半、国際学会に参加するためにロンドンに行った。到着したその足で会議場そばのホテルへ向かい、スーツケースを部屋において水と食料を調達しに外へ出かけた。ホテルのロビーからエントランスへ降りるエレベーターで、2人連れの女性と乗り合わせた。「私たちは教育関係のカンファレンスで今日まで来ているんです。あなたも何かの会議ですか?」自分の母親と同年代と思われる方に尋ねられ、(この疲れているときにエレベーターピッチとは…人生は厳しい)と思いながらも返答に詰まった。この初対面で何も共通の関心が見当たらない人に、自分の専門をどう表現したらいいものか。その…と数秒時間を稼いで口をついた答えは「コンピュータサイエンスです」だった。これには自分自身でがっかりした。本当の専門分野は、いわゆるコンピュータサイエンスとは相当の隔たりがある。とっさの事だし仕方がないと思いながらも、代わりに何と答えれば十分な返答だったのだろうと考えていた。

そんな記憶がまだ新しいうちに、佐山弘樹さんが Twitter に投稿されていた講演資料に目が止まり、スライドを一息に読んだ。学際的(interdisciplinary)研究者として生き残るためのヒントが、ご自身の実体験に基づいて書かれてある。(個人的には、佐山さんとは2012年頃から国際学会でお会いすると食事をご一緒したり良くしていただいていて、その意味でもスライドから活き活きとしたトークの雰囲気を感じながら読んだ。)

スライド中、”Challenges” の節にまず取り上げられる identity crisis は、ああ正に先日の自分のことだと実感をもって同意する。今回だけでなく「何の研究をしているんですか」と聞かれて相手が得心するような答えを返せなかった経験は少なからずある。論文や研究費の出し先を選ぶのが難しかった記憶もいまだ鮮明である。なんと因果な道を選んでいたものかと改めて思う(私はすでに論文執筆を成果とする職業研究者ではないので、この辺りはすべて過去形になる)。

この記事を書こうと思ったのは、スライドにある学際的研究者の “Survival tips” は、アカデミアの外に出ても有効であるしその処世術を体得していることは学際的研究者にとって大きな優位点になるということを書き残しておきたかったからだ。

学際的研究者の長所は、つまるところ「多様な人々の『世界の分かり方』を理解することができる」ことにあると思っている。同じ対象を見ていても、たとえば生物学者と計算機科学者ではその見え方は全く違う。個人として何を面白いと思うかが違うだけでなく、その分野で何が成果として評価されてきたかという経緯にも強く影響される。異分野横断の共同研究が頓挫するのはおおよそこの違いに起因すると推測している。一方、学際的研究者は必然的に異分野の研究者とコミュニケーションして時には説得することを迫られるので、「相手の『世界の分かり方』を理解する」訓練を積んでいる。これは決して他者の関心に迎合するということではなくて、大げさに言えば利害の異なる相手とその違いを認識しながら折り合いをつけて自分の「世界の分かり方」を表現する、というプロセスである。

こう言い表すと「相手の『世界の分かり方』を理解する」能力の射程は、学術研究に限ったものではないことがわかる。企業に所属するデータサイエンティストとしての私の職責は、データの統計分析に基づく客観的な根拠でビジネス上の意思決定を支えることである。プロジェクトに関わる様々な立場の人々が納得するように、既存のドキュメントやミーティングでの会話に気を配って相手の「世界の分かり方」を推測し、自分の専門知識を使って最も効果的なアプローチを提案する。ウェブで定期的に話題に上がる「データサイエンティストにビジネス理解は必要か」という議論も、根本的にはこのようなコミュニケーションの問題ではないかと思う。様々な「世界の分かり方」をする人々と協業できる現職は健全で居心地がよいと思っている。その環境で職責を果たすために常に新しいことを学び続けることは、むしろ楽しい(Tips 3 “Keep learning new stuff”!!)。

寺田寅彦の有名なエッセイ(科学者とあたま)の、以下の一節が特に好きだ。

頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。
つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。

このことは、狭義の自然科学研究者だけでなく、現代では科学的知識を用いて未知の事象に取り組む職業に広く当てはまるのではないかと思う。謙虚に耳を傾けるべき対象は自然そのものだけではなく、他分野の研究者であったり全く畑違いの同僚であったりする。頭が悪くかつ頭がよい人に近づくための自分なりの指針は、常に interdisciplinary であり続けることである。

 

 

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